網中さんとあやちゃんの二人展に、池田美奈子先生が訪れた。池田先生は、九州大学芸術工学部の准教授だった方で、Amazonの僕の買い物の履歴によると、池田先生の本『情報デザインー分かりやすさの設計(情報デザインアソシエイツ編)』を買ったのは、2007年3月。その頃の僕は、グラフィックデザイナーとして、デザインに対してどういうモチベーションを持てばいいのか悶々としていてその答えを探すのに必死だった。本にはIDEO Japanの代表だった深澤直人さんの興味深い論考もある。
深澤さんは、例えば、傘立てがない玄関に傘を立てる場合、特に意識せずに「傘が倒れないように、床のタイルの目地に先端が当たるように立てる」ことや、止めている自転車のカゴにゴミを捨てる人が多いという事実に着目し、そこから「直感的に理解できるインターフェース」…これをのちに、アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが生んだ言葉「アフォーダンス」の考え方、、、つまり『無意識』を自身のプロダクトデザインに取り入れた日本で唯一の人だったと思う。
2000年に原研哉氏と日本デザインセンターが刊行した本『RE DESIGN』の柏木博、深澤直人、原研哉による座談会では、深澤さんのその先鋭性が際立っていたと言える。この座談会のキャッチコピー「ちょっと首を傾けるだけで世界は変わる」は深澤さんの座談会での発言によるものだが、原さんはこの言葉をよほど気に入ったのだろう、その後、2003年に出版した原さんの名著『デザインのデザイン』の「まえがき」で以下のように言い換えて引用している。
『机の上で軽く頬杖をつくだけで世界は違って見える』(原研哉著『デザインのデザイン』(まえがき)より。)
深澤さんと言えば、無印良品が開催したMUJI AWARD 01。その授賞式に深澤直人さん、原研哉さん、小池和子さん、ジャスパー・モリソンなど錚々たる無印良品のボードメンバーが審査員となって、今は閉店してしまった無印良品の有楽町店に集まっていた。それで、これはその日の一番の思い出なんだけど、当時の無印良品 代表取締役社長だった金井政明さんが、僕のところまで駆け寄って来て、名刺交換の後「あなたの応募作品は、深澤直人さんが推したんですよ!」と仰ってくれた。今でもあの時の興奮は忘れない。僕がデザインへの考え方が変わろうとしていた前夜、最も刺激を受けた人だったから。
…話が逸れてしまった。そうそう池田美奈子先生。
Canonがリリースした製本印刷ができるプリンターのリリースイベント企画の一環として、僕と福岡の大御所デザイナーとの対談があり、そのファシリテータとして池田先生が参加して、初めてお会いしたのが2014年。10年を経て、大牟田で再会したのだ。
それで、ハッと思い出したことがあって池田先生に尋ねてみた。「目黒先生には最近お会いしましたか?」と。
目黒先生とは目黒実さんのことで、Instagramで何度もポストしているが、20代の僕に多大な影響を与え、今も読み返している小説『パパ・ユーア クレイジー』を世に出した人だ。翻訳は伊丹十三さん。東京にいると思って、目黒先生にメールを送ったら、なんと僕が住んでいるところの目と鼻の先に先生はいた。2015〜16年には会う機会があったけれど、大牟田へ越してからは疎遠になってしまった。池田先生に尋ねたのは、目黒先生も以前、九大で教鞭を取られていたから、もしかしたら繋がっているかもしれないと直感したからだ。
池田先生は、ここ数日内にメールのやり取りをしたこと、そして、大変元気であること、フェイスブック上でエッセイを投稿なさっていること、そのエッセイが今年で100回を超え、目黒先生の周りの有志で、小寺くんのUNION SODAを借りて企画展を開いたことなど近況を聞かせてくれた。
企画展はエッセイに関する言葉の展示や先生が執筆した絵本の原画の展示を行ったようで、知っていたら絶対見に行っていたのに!と思い悔やんだが、答えは簡単だった。僕ははたと初歩的なミスに気がついた。目黒先生と『友達』になっていなかったのだ。つまりfacebook上の友人ではなかった。先生と交流のあった2016年の僕のSNSの主流はInstagramで、Facebookからはすでに遠のいていた。しかも先生がSNSをなさっているとは微塵も考えなかったのだ。
しかし今更、僕は目黒先生にFacebookの「友達申請」をする気にはなれない。SNSで繋がりたいわけじゃない。リアルに目黒先生と真の言葉を交わしたいのだ。
それで池田先生に連絡をして目黒先生のメールアドレスを教えてもらえないかお願いした。するとお忙しいのに「先に私から目黒先生にメールをしましょうか?」と言ってくださった。とても恐縮したが、ここはお言葉に甘えてお願いすることにした。
するとすぐに池田先生から連絡があった。
『定松さんのことを覚えていらっしゃいましたよ!「何かあったらエッセイでも読んでからご連絡ください」と…(笑)』
これには思わずニヤリとしてしまった。実に目黒先生らしい。久々に宿題を出されたような気がして僕はなんだか嬉しかった。
目黒先生が毎月1日と15日に更新しているフェイスブック上のエッセイ『Mon Oncle-ぼくの伯父さん、わたしの叔父さん』は2020年の5月1日にスタートして、2024年9月16日の現在までで106回続いている。『映画監督であり俳優であった伊丹十三の薫陶を若き日に受けた目黒実が、映画・文学・アートなどを縦横無尽に駆け巡るエッセイ』とあるが、その言葉の通り、テーマは全方向に及ぶ。しかもものすごい知識!教養なのである。
例えば、106回目のエッセー『September rain rain 九月の雨は優しくて』。
暑くて仕事もできず暇を持て余しているので、暑さを吹き飛ばし、雨を乞うため、筒美京平作曲、作詞松本隆コンビの「九月の雨」を聴く。このコンビと歌手太田裕美は、1993年、「木綿のハンカチーフ」、「赤いハイヒール」、この「九月の雨」とを連発し、3部作でミリオンセラーを狙った。(中略)エレファントカシマシの宮本浩次にも同名タイトルの「九月の雨」がある。しかも二曲もある。
世代も世界観もゼンゼン違う。不思議なことだけど、違うのに、宮本は、松本隆の詩歌が好きなようだ。「赤いスイートピー」など、松本隆の曲をよくカヴァーして歌う。詩人として作詞家として心からリスペクトしているのだろう。
太田裕美の「九月の雨」は理解できるけど、突然、エレカシの宮本宮本浩次の名前が出てくるので、読んでて「エッ!」となる。 目黒先生は今年で78歳になるそうだ。
細野晴臣に、「はっぴいえんどのメンバーは、宮沢賢治の詩歌、物語、世界観に大きな影響を受けている」という発言があるが、音楽に門外漢のボクには、正直よくわからなかったが、細野が音楽を担当したアニメーション映画『銀河鉄道の夜』のその音楽は実に魅力的で、なるほどと理解できた。
その後、YMOのメンバーになった坂本龍一からも、宮沢賢治の影響は、はっきり感じられるから、それはもしかしたら、「はっぴいえんど」からのギフトだったのかもしれない。
細野晴臣は、あの大西洋で沈没したタイタニック号に乗っていた唯一の日本人細野正文氏の孫だ。当時鉄道官僚として、1年間ロシアで鉄道研究をしていて日本への帰国の途で、タイタニック号に乗り合わせたそうだ。誤報で「生き残った卑怯な日本人」として伝えられ、職も解かれ苦しんだという。のちに名誉は回復されたがすでに時間が経ちすぎていた。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、タイタニック号で亡くなった姉と弟と家庭教師が登場するが、その祖父のこともあり、宮沢賢治をリスペクトする細野は、ますむらひろし版「銀河鉄道の夜」の参加に「声」をかけられ、音楽を依頼され、不思議な縁の感覚を味わい、びっくりしたと、語っている。
エッセイの最後は、文中に引用し、そして目黒先生が実際お読みになった本を並べた写真を掲載している。このエッセイは、そのおすすめの本に最短で辿り着くためのブックガイドなのだ。
それで、僕はエッセイの第一話から読むことにした。
タイトルは『You are Here』。
001:You are here
生きていると愉しいこともあるけれど、悲恋に終わったとか、友情が切断されたとか、信頼する人からの裏切りにあったとか、悲しいこと、辛いこと、涙するような苦しいことの方が圧倒的に多い。フランス人の言う「セ・ラ・ヴィ(それが人生だ)」と達観できればいいのだが、多くの人は、そしてボクもそんなふうにはとてもとてもなれない。あるいは、今回のパンデミックのような、世界的な感染症や人智を超える自然災害のとき、どうやってボクたちは、平静に平穏に心を落ち着かせ乗り越え、日々の暮らしを営んでいけばいいのか。今回のように、もしかすると人類がかつて一度も出会ったことのない、ゆゆしき事態になるであろうときに。処方箋はない。
このエッセイを投稿した日付を確認すると2020年5月1日とある。つまり、世の中が新型コロナウィルスによるパンデミックで、当然日本も緊急事態宣言下である。その中で、先生は静かに内省している。
考えてみれば、昨年末、自分も似たような心境だった。55歳の誕生日を迎えたが心は晴れない。歳を重ねたことを僕は素直に喜べなかった。世界を見渡してみると、ロシアとウクライナの戦争はまだ続いているし、おまけに昨年10月にはパレスチナとイスラエルの戦争が始まった。環境問題も待ったなし。自然破壊や温暖化による気候変動は目に見えて深刻化している。食卓を見れば一目瞭然だ。経済も然り。こうした、いわば、ゴールが見えない耐久レースを強いられているような厳しい状態において、「希望」をなくしたわけではないけれど、根拠もなくただ「希望」を持つのは容易なことではない。
そんな悶々としていたある日のこと、テーブルの上に、妻が義父ちちに手渡されたと思われる新聞の切り抜きが置いてあった。切り抜きは全部で3枚。見出しを読んでみる。
「結論急がず、悩みに耐える」
「決めつけや浅い理解 不寛容の行き先は戦争」
「長い目で問題考える 気候変動も経済成長も」
寄稿者は、作家で精神科医の帚木蓬生ははきぎ ほうせいさんと環境ジャーナリストの枝廣淳子さん。二人に共通するのは「ネガティブ・ケイパビリティ」と言う言葉。聞き覚えはあったが意味までは知らなかった。帚木さんは「論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力」とし、枝廣さんは「問題に即座に結論を出さず、答えを保留して適切かどうかを深く考え続ける力」とそれぞれ説明している。
人間の脳は、ひたすら出口が見えない状態に耐えられず、結論を急ごうとする。「そこに落とし穴がある」と帚木さんは指摘する。「深い問題が浮かび上がらないまま、浅薄な理解にとどまってしまう。だから結論を急がず、逃げずに問題に向き合うこと。これがネガティブ・ケイパビリティの力なのだ」。
新聞記事を読んで、悶々としていた自分の状態が「答えが出ない事態」であることをわかりやすく解説してくれていたので、僕は随分救われた気がした。
それで、2024年が始まってからというもの、僕はそのネガティブ・ケイパビリティについて会う人会う人に話した。もちろん、全てを理解したからではない。こういう考え方があることを興味のありそうな人に話したかった。その中に小野寺睦さん、亜希さん夫妻と娘さんの環ちゃんもいた。
詳細は省くが、小野寺睦さんは佐賀県三瀬村の農家さん。しかし昨年末、約20年続けた養鶏をやめた。僕らは毎月、小野寺さんの卵が届くのを楽しみにしていたけど仕方がない。小野寺さんご夫妻の新しい門出とこれまでの労を労うために、前々から僕の自家製ラーメンをご馳走するという約束をしていて、それで、今年の3月、一家を招いてラーメンの会を開いた。
そしてその時、小野寺さんに話そうと思っていた2つのことを話した。一つは協生農法について。もう一つがネガティブケイパビリティについて。協生農法についてはまた別の機会に譲るとして、後者については、特に僕がその考えに偶然辿り着いた経緯も含めて小野寺さんに話した。小野寺さんは初めて聞くその考え方に興味を持ってくれたが、小野寺さんたちの帰る時間が迫っていて、この話題については結局ゆっくり話せなかった。翌日、小野寺さんからメッセージが届いた。ラーメンのお礼と最後の締めくくりに『協生農法と今のもやもやへの対処法については、またじっくりお話しさせてください』と記していた。
さて、目黒先生のエッセイに戻ろう。「You are here」の続きにこうある。
“You are here”と、自分に問いかけて、自分の現在地を探し当て、深呼吸して考えてみるしかない。(中略)ちゃんと今度は、悲観的に考えたとしても楽観的に生きよう。利他的に生きよう。(中略)人のため世のために自分の何か、あればその才と能を提供すれば、誰かの花が開き、他者を少し幸せにできる。そんな利他主義に生きれば、もしかすると自分にもいいことが起きないとも限らないかと願う。そのためには、イッタイゼンタイ自分は、どこからこの現在地に辿り着いたのだろうかと、深呼吸して空を見上げ、ふっと考えてみる。それには、大人としての知見や常識を一度脇に置いて、子ども時代のことを考えてみよう。(中略)今のあなたを支えてくれているのは、そんな子ども時代のあなた。初めて見た湘南の夏の海、ウイキョウの葉についた青い雨粒、クリスマスに舞う風花。子ども時代の自分は、世界をどんな眼で見て何を感じていたのか。…見えない世界が見えていた子ども時代を思い出し、深呼吸をひとつふたつ。
これがおそらく目黒先生がエッセイを書こうと思った動機なのだろう。
今日ふと昨年の手帳をめくり返して目黒さんの言葉を拾ってみました。そしてその中の一文を今年の手帳に書き写しました。「子どもたちは分からないことを分からないままにしておける」
まさかの小野寺さんのコメント…いや、正確に言えば、小野寺さんが聞いた目黒先生の5年前の言葉によって、再び僕はネガティブ・ケイパビリティに出会ったのだ。ー子どもたちは分からないことを分からないままにしておけるーこの能力を子どもたちは特に訓練をしなくてもデフォルトの状態で持っているということなのだ。『分からないことを分からないままにしておけるこども時代のことを思い出す』ことは、ひょっとすると目黒先生がおっしゃるように、今、必要なことなのかもしれない。