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2017. 01. 06. Fri.

昨年6月に広島のCite’ で見た小山さんの作品「木円」があの時以来ずっと気になっていて、元日から同ギャラリーで開催の『小山剛 木工展 「33の木々」』を観に行った。
新しい年を迎えて、元旦の雰囲気だけでも味わいたかったので簡単にお節と雑煮を食べて車に乗り込んだ。11時に家を出て広島に着いたのが15時半。なんとなく想定していたのだけれど、元日は車の混雑が少なく、やはり正月に動くなら一日が正解だと思う。(但し、神社以外の場所に限るだろうけど)何より、馬鹿みたいに天気が良くてドライブにはうってつけだった。

小山さんに会うのは実に4年半振り。香川で一瞥しただけだったが、今日までゆるやかに繋がっていられたのは、言うまでもなく彼が産み出す作品が素晴らしかったことと、SNSの恩恵といえるだろう。

重力を無くしたように中空に浮かぶ「木円」は、小山さんの飄々とした掴み所のない雰囲気とどこか似ている。4年前は、盆や皿といった日常の道具を作っていて・・・まあ、それは今も制作しているのだけれど、この「木円」はそういった道具としての機能は排除されていて、彼の作品群からは一線を画した唐突な印象を感じたのだが、何故かとても気になる作品だった。

しかし、しばらくオブジェクトを眺めていて、はたと気がついたのだ。楽茶碗や茶匙などの茶道具を作っていた彼ならば、きっと茶道に通じているはず。だから、もしかしたら茶席の掛け物で使われる禅の書画「円相(円窓)」から「木円」のモチーフを得たのではないかと考えが及んだ。それで少し円相について調べてみた。

〝円相とは空・風・火・地を含む世界の全体、究極の姿をあらわしたものと言われ、悟りや真理を象徴的に表現した形だと考えられている。また、円は欠けることも、余すところもない完全な形状をしているところから、始まりもなければ終わりもない無限の宇宙の象徴でもある。しかし、悟りの境地を説明したり、文字で表現したりすることが禁じられている禅に於いて、「円」がどのように見えるかは見る者の解釈に任されている。(※円窓と書いて「己の心をうつす窓」という意味で用いられることもある)〟

もしも、一枚の木板から刳りぬいたこの「木円」が、禅を極め悟りを表す「円相」をモチーフに作られた作品だとしたら…と考えると、僕は至極合点がいくのである…。しかし、まあ、真意はどうであれ、観る側の愉しみ方は人それぞれ。寡黙に浮く円環について、多くを語るのは野暮というものかもしれない。

僕らはCite’に着いた瞬間から目に入ったお気に入りを一つ購入し、そして、そのまま福岡へと蜻蛉返りした。広島にいたのは僅か40分程度だったが、往復9時間を費やしても見る価値は十分あったと思う。僕自身、こんなふうに元日を過ごすのは48年間の人生で初めで、とても新鮮な経験だったし、かなり充実した一日を過ごせて満足だった。

そういえば、禅には「禅即行動」という言葉があるそうだ。〝考えるよりもまず「行動」する〟という意味の禅語で、今年はこの日過ごしたように、自分の心に何か蠢くものを感じたら躊躇することなく、〝思い立ったが吉日〟の如く、考える前に動く、「禅即行動」の一年にしたいと思うのである。

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