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2016. 07. 11. Mon.

◎三日目(前編)/鳥取
宿で目覚めたときにそぼ降っていた雨は、砂丘に着く頃にはやんでくれた。こんなふうに旅の間、幸いにもずっと天候に恵まれた。

◎写真
僕が写真を撮り始めたことや、撮ることに夢中になっている理由は、ここに書ききれないくらい枚挙に暇がない。それとは別に写真を撮ることの根本的な動機を訊ねられたとしたら、その答えは一つである。それは、自分自身の考えを自分の言葉を使って文章にすることと同意義であるということである。即ち、僕が自分の目で見て感動したことを誰かに撮ってもらうのではなく、自分の頭の中である程度仕上がりをイメージしながら、シャッターを切ることに文章と同様、僕はかなり高い関心を持っている。

◎砂丘
どこをどう撮っても写真になる。砂丘は巨大なホリゾントだと植田正治は言った。ならば是非僕も、砂丘の写真を撮ってみたい。鳥取への憧憬は、砂丘への憧憬でもあった。
前日降った雨のおかげで砂地を歩くにはほどよい固さになっていて、風はあったがレンズに砂が入る心配はなかった。また、薄曇りで気候も丁度よい。砂丘の写真を撮りはじめると植田さんの言葉どおり、どこをどう撮っても写真になる。それは切りがないくらいで、次に鳥取に来たら一日砂丘の写真を撮って過ごしてみたい。

◎万能包丁
もう一つの旅の目的。それは山陰の「民藝」に触れることだった。僕らが泊まったY http://y-tottori.com/ から歩いてすぐ近くに、「鳥取民藝美術館・たくみ工芸店」がある。たくみ工芸店では「かご・ざる展」が開かれており、そこで気に入った籠と吉田璋也 http://shoyayoshida.jp/ がデザインした「パン切りナイフ」(写真上)を買った。最高級の鋼を使っており、切れ味は本当に素晴らしくて「パン切り」というネーミングには、少々、過小評価気味な感がある。寧ろ堂々と『万能包丁」と謳ってみてはどうだろう。その名に恥じぬポテンシャルと風格があると僕は思う。

◎まなざしの交差
随分前に、あやちゃん http://iwai-aya.squarespace.com/ のポートレートをSHIROKURO http://shirokuro.jp/ の事務所の近くで撮ったことがある。彼女はカメラの前で自由にそして堂々としていた。人物を撮るときに感じていた「距離感(≒緊張感)」を彼女にはあまり感じなかった。「撮られること」を受け入れると、人は無意識に友好的なオーラを出すのだろうか。しかしそういう被写体にはそう出会えるものではない。あやちゃんは写真を撮ることはもちろん、撮られるということも知っているのだろう。

それからしばらく経ってあやちゃんと海に行き、そこで写真を撮った。冬の海の色は意外に蒼く、美しい。その日は素晴らしい天気だったから、順光で撮ってみたり、逆光で撮ってみたりした。その時も、彼女はまるで写真の中に住んでいる人のように平然としていた。でも、時々、こちらの世界に戻って来て照れ笑いを浮かべていた。

そんなことがあって以来、僕は人を撮ることについて特に興味を持つようになった。しかしながら正面で大きなカメラを構えると、大抵はあやちゃんのようにはいかない。どうしても人はカメラを意識してしまい、輝くような普段の姿を隠してしまうのだ。

ではどうすれば、カメラを意識させずにポートレートを撮ることが出来るのだろう。そんな考えが僕の脳裡に充満していた折、植田正治写真美術館の展示解説に下記のような文章を見つけた。

…カメラを向けられ、素直に反応する無邪気な子どもたちや素朴な人々の姿は、植田正治の写真の中で特に印象的です。そこにカメラがある事を意識させないように撮ることが“自然”であるという考え方もありますが、植田は、「人にカメラを向けた時に、カメラを意識するなということの方が不自然だ」と語ります。つまり「カメラを意識させ、真正面から撮る」ことは、被写体とストレートに、そして真摯に向きあうことの表明であり、それによって生じる様々なコミュニケーションを植田さんは楽しんだのでしょう。…

「撮ること」そして「撮られること」についての僕の素朴な問いへの答えが、まさか鳥取にあるとは思いがけないことだったが、同時にこの問いの答えは、やはり僕自身が見つけなければ意味がないとも思った。(つづく)

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