ピカソ美術館に行く前に、腹拵え。玉置さん情報にあった「ラズ・ドュ・ファラフェル」でファラフェルを食べる。ファラフェルというのは、ヒヨコ豆やそら豆のコロッケを、キャベツの千切りや揚げナス、きゅうりに赤キャベツの酢漬けなどと一緒にピタパンではさんだ中東のサンドイッチみたいな食べもの。
店の前にはテイクアウトを注文する人で大変な人だかりだったけど、店の中は割合に空いているようだったので中に入って食べた。かなりボリューム満点。





手元にいつも置いているピカソの画集には「パリ. ピカソ美術館」という表記がついている作品がいくつもある。
例えば僕が好きな新古典主義の作品・・・「座る女」や「雄牛の頭部」という自転車のサドルとハンドルのアッサンブラージュ、或いは、「軽業師」だとか、そういった作品は悉く展示されて居らず、かなりマイナーなものが多かったし、僕は昔からそうなのだけど、画集や作品集・・・つまり実物を目の当たりにするよりも印刷物で作品を鑑賞する方が好きみたいなのだ。だから、青の時代の「セレスティーナ」や「自画像」、マリー・テレーズ・ワルテルを描いた「座る女」を観ても、なるほど、と思うだけで、特にグッと来るわけではなかった。これはいつも不思議に思うことなのだが。
しかし、中庭にギョーム・アポリネールの記念碑「ワイヤー・コンストラクション」が置かれているのを観た時は、僕が考えていた以上に大きい作品だったことが分かると、やはり実物を見て良かったとも思う。


さて、ポンピドゥーセンターに着いた頃には、僕はすっかり疲れてしまっていた。既にロダンとピカソを堪能したあとだったので、これからさらに大量のアートを観るには脳内のメモリは充分でないように感じていた。
凡そ1900年からの、パリを中心としたアートの流れ、60年代のポップアートでその流れがアメリカを中心に変わる様子。そして、現代に移っていくにつれ、あらためてアートの曖昧さを再認識した。
セザンヌやブラックの作品は初めて観るものだった。多視点を絵画に導入したセザンヌは、その後、ピカソやジョルジュ・ブラックによって提唱、創設されるキュビスムの形成に多大な影響を与えたのだが、セザンヌの作品とブラックとピカソのキュビズムの作品がひとつの部屋に展示されていた。
彼らは周辺の画家の作品から刺激や影響を受け合い、作品に反映させた。これはとても興味深いことだと思う。ブラックはセザンヌやマティス、ピカソの影響が渾然一体となった作品を制作したし、ピカソもセザンヌ、マティス、ブラックの影響が濃い作品を描いている。特にキュビズムの終盤あたりはブラックとピカソの作品は見分けがつかないほどだ。


「現代ゾーン」の作品は、アートが如何に境界がなく曖昧なものであるかを顕在化していた。こうなれば何でもアートだということになる。
アートとは何だろう。この問いのヒントになりそうな一節がある。「最近はなにもかもあんまり悪いので、悲惨でさえなければそれはとてもいいということになる」。そしてこうも言っている。
「なんでもアートなのさ。お前がなにかを特に眺める。お前がなにかを特に見つめる、お前が何かを特に他のものから別にする。みんなアートなのさ」。(つづく)