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2016. 12. 15. Thu.

先日、料理研究家・井口和泉さんのスタジオで撮影を行った。
彼女がつくる料理は無論のこと、ただ食材を並べている景色を見ているといつも感じることがある。ほぼ無意識に美しく並べてしまう、という人が世の中にいるということを。単に整理整頓が上手いということではなく、物と物の関係性を感覚的に知っている、或いは、感覚にそういった感性が組み込まれている人。
以前、古川さんの高校時代からの友人でアーティストの奥伝三郎氏のその並外れた才能を語る際に聞かせてくれたエピソードを思い出す。「何でも彼が触るもの・・・例えば、何気なくティッシュを丸めてもその形が絵になっている」。古川さんには、何でもないただのティッシュがそう見えたという。

英語では「見る」を「SEE」「LOOK」「WATCH」の3つの動詞で使い分けている。
「SEE」はあるものが自然に目に入る。意志を持って見ない。「LOOK」はあるものを見ようとして見る。特に視線を向けるという意味がある。そして「WATCH」はあるものを注意して見る。特に動いているものを見るという意味がある。
僕たちが「見る」と言っていることを「SEE」「LOOK」「WATCH」の意味合いの違うワードを手がかりに、頭の中を整理してみると面白いかも知れない。

また、どのような「視点」を持つかでその対象の「見え方」が変化するということも興味深いテーマだと思う。上述した「丸めたティッシュ」は、古川さんの目を通したことで、丸めた本人の意志とは関係なく「絵になる=造形作品」という鑑賞の対象となった。しかし他の人が見れば、ただのゴミだと気にも留められなかったかも知れない。同じものを見ていても、同じように見えることは少ない。僕が頻繁にこのエピソードを思い出し反芻するのは、別の価値を見いだした(或いは、与えた、とも言えるが)その古川さんの感受性を愛おしく思うからである。恐らく「視点」と「感受性」は無関係ではなさそうだ。そもそもどのような「認識」を持って「見る」かでも違った創意が出てくるだろう。さらに「視点」をかえることで「認識」を肥やしたり、新たな「認識」を持つということもある。正に、見ることは、考えることと同様の意味があると僕は思う。

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